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「教え」の創始、完成者「法運 小林幸太郎先生」 |
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明治9年10月12日、千葉県印旛郡木下町(きおろしまち)字小林新田に生まれる。
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少年時代より思い描いていた、貧困に喘いでいる農民をはじめ、多くの不幸な人々を救うことを 実現するため政治家を目指し、明治時代の大政治家「星亨」の門下生となるも、明治34年に「星亨」が兇刃に倒れたため政界を断念した。 |
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宗教による国民救済を念願し、明治40年に日蓮宗池上本門寺貫主 第68世 久保田日亀大僧正の在家の弟子となり、難行苦行の修行を重ね、「千葉県清澄寺」(日蓮上人が修行された由緒ある寺にもかかわらず、真言宗の寺院となっていたが、現在は日蓮宗の寺院となっている。)へ「十界曼荼羅」のご本尊を掲げることと、当時皇太子であった大正天皇の病気平癒のため、ご生母である「柳原二位局」ご進講し宮中へ法華経を奉ることを実現し、師匠との二つの約束を成し遂げた。 |
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大正7年に「蜂須賀侯爵家」の上席顧問として迎えられ、北海道において、時代に先駆け、蜂須賀農場での自作農創成、絲屋銀行の預金者救済、空知川堤防の建設、札幌と沼田間(110km)の鉄道札沼線(現在は廃線)敷設を成し遂げられるなど、少年時代からの念願であった農民救済を実現した。 |
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昭和4年に蜂須賀侯爵家上席顧問を離任後、救世的実践活動に入られ、現在まで続く「教え」を通し、多くの人々を導いた。 |
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昭和13年8月10日 ご命日(享年63歳)
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「教え」の継承者「法得 武田弥三先生」 |
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| 明治23年9月10日 静岡県富士郡今泉村水ノ上に生まれる。 |
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信仰生活を志し、身延山他各地で荒行三昧の修行を行い、大正12年に、信仰の仲間とともに 「国民思想善導・健康国難打倒」を目的として、静岡県富士宮市に「立正結社山下教会」 を設立した。 |
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妻の病死、己の病気に加え、一人息子がマムシに噛まれることが立て続きに起き、長い信仰生活に行き詰まりを感じていたとき、昭和8年5月7日に静岡県富士郡本国寺における修養講演会において、小林法運先生と出会い、長かった信仰生活にピリオドを打ち、小林法運先生の弟子となり「教え」の求道に専念することとなった。 |
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法運先生のご遺言により、昭和13年8月から「教え」の継承者となった後、多くの人々が理解できるよう、「教え」の平易化に努められ、法運先生の遺された「教え」の命を失うことなく、純粋な修養団体への変貌を成し遂げられた。 |
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昭和26年1月24日 ご命日(享年62歳) |
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